和医術とは何か?

高台から眺めてみれば…和医術には、その根底に和医道というものがあります。

和医道和医術は私、松下佳秀(まつしたかしゅう)の祖父から三代に渡り継承されてきたものですが、その源流は、いわゆる東洋医学とは異なり、日本古来の随神(かんながら)の道であると考えます。

和医道とは、体と心の気を高め、環境に逆らわず、環境を乗りこなせるようになる為の道筋を教えているものです。苦と思われていることを楽に転換し、いつも楽しく、笑顔で、明るく、爽やかに、美しく、安心して生き貫く体と心を、日々の研鑽稽古を通じて養っていこうとする、医の観点からの「道」であり、「心得術(こころえじゅつ)」です。

日本には実にたくさんの「道(どう)」がありますね。神道や仏道は言葉と祈りに、合気道・剣道・柔道などは武術に、茶道はお茶の作法に、華道は生け花に、書道は書画にその研鑽を表現しているように、和医道は和医術を表現手段としています。それぞれ表現方法は異なっても、どれもその目指す所は同じ高嶺の境地なのだと思います。

和医術とは、和医道の説く不変の「理」の中の「病理」に基づき、和医道の研鑽で身につけた「気」を使って行うところの、病気を治(おさ)める「技」です。つまり、「理」と「気」と「技」の三つが一体となって確立されつつある「日本の医の道の医術」というわけです。

なにやら固い言い方になりましたが、簡単にいうと、和医術とは、「気」を用いて、病気の物理的原因をハッキリと確認しながら解消することができる医術です。

そしてそれは至ってシンプルなものなのです。

では、まず「和医道和医術を紹介しようと考えた理由」と「佳秀が辿った和医道和医術の紆余曲折」をご紹介してから、和医術の「病理」「技」「気」について簡単に述べていきましょう

和医術とは何か? 目次

1, 和医道和医術を紹介しようと考えた理由

20年間に及ぶ和医術の研究研鑽を今年で終了し、ここに初めて和医術概略を紹介することにしたそのワケを、簡単にお話しておきます。

近年の日本社会は、急激とも思われるような大幅な科学技術の進歩によって、ここわずか40〜50年足らずの間に歴史上かつて経験したことのない文明社会へと変遷してきました。文明開化は止まるところを知らず、種々花盛りの様相です。

その一方で、この現実的恩恵とは裏腹に、科学技術の進歩に合わせるかのようにして日本国民の心身の病気が進化傾向にあるという皮肉な現象蔓延の雰囲気が日本社会を包み込んでいるという実情があります。国民の中に同時多発的に慢性病が広がり、その種類も増加しているのです。

本来は元気で勉学や仕事に勤しみ励んでいるはずの若者達までもが心身を病んでいます。心を悩まし、その苦悩する心は脳中枢に波及し悪影響を及ぼし、これがさらに心身を悪化させてしまうという負のスパイラルが出来上がってしまう。出口の見えない苦悶苦闘の中におられる方々が増えています。

このような状況を見るにつけ、全くもって20年以前の私個人を見ているようで実に切なく、何とか解決してやりたい、と居ても立ってもおられません。自身が研究研鑽してきたことを何とかして伝えてやりたい。何とか伝えて治してやりたい。そのような思いが募りに募って、和医道和医術を公開する決意を致しました。

実績からして、心の病気は和医道で、肉体の慢性的物理的病因からなる病気は和医術で対処します。このいずれか一方を使って、もしくは両方使って二足のわらじで対処すれば、慢性の病気は治まり、元々の自分らしい元気を取り戻せます。病気とは反対の元気でスッキリした自分に戻れるのです。

この事を、私は断言します。

そして願わくば、
病気を治め治る体験をされて、それを通して「なぜ治ってしまったのか?」について極められて、その知恵と力を、勉強でも仕事でも趣味でも自分の好きな分野に生かしていただきたいのです。自分にとっても好ましく、他者にとっても喜びとなるような、社会の役に立つ、社会性のある元気な日本人になっていただきたいと思っています。

なお、和医道に関しても追って紹介してく予定です。

2, 佳秀が辿った和医道和医術の紆余曲折

2-1, 和医道和医術は祖父から学んだ

私は現在の和医道和医術の基礎を初代から学びました。

初代、つまり私の祖父は仏法・古神道などの宗教哲学に詳しく、理屈よりも実践を重要視し、自ら励行する求道の人でした。医療に関しても、和医術の他、食養や草根木皮も使いましたし、灸の心得も持っており、状況に応じて様々に使い分けていました。そしてなにより、当時、西洋諸国からもたらされた最先端の科学にも造詣が深かったと記憶しています。

小学生の頃、初代から聞かされた話しの中にひときわ印象深い言葉があります。

「人間はね、電気仕掛けなんじゃよ」

当時の私にはさっぱり解りませんでした。

この「電気仕掛け」の意味が、本当に解るようになるまでに40年の歳月を要したことになります。明治生まれの爺さんが理解し体得していたのに、鉄腕アトム世代の自分はなかなか解らなかったのですから、祖父には頭の下がる思いです。

2-2.和医道和医術なんて必要ないと思って、捨てた

祖父から本格的に教育を受けたのは、大学生になってすぐでした。祖父は待っていたかのように和医道和医術の講義を始め、それが三年間続き、その後すぐに他界しました。

祖父とは色々なことを問答したと記憶しています。しかし高度成長期真っただ中で学生を謳歌していた私には、まったく遠い世界の話しに聞こえました。教えられたのは理論のみで実践の手ほどきはなかったからかも知れませんが、小学生の頃の「電気仕掛け」同様、言葉の意味は理解できても、当時の日常にあって祖父の言うことはどう考えても腑に落ちず、納得できませんでした。

ですから当時の私は、内心では今後は和医道和医術なんて必要ないのではないかと思っていたのです

「今までは西洋式医学といっても怪しげな点が多かったかも知れないけれど、これからは西洋式医学の方が和医術より俄然頼りになるはずだ。病気の治療は病院があるのだから、それで充分じゃないか。病気治しは病院が一番だ」

当時の多くの日本人がそうであったように、私もこのように考えていたのです。

そのような心がけですから、祖父亡き後、私は教えられていたことをスッパリと捨て切り、家業を継ぐこともなく、時流に乗り、時代にまみれて生きてきました。祖父が私の為にと書き残しておいた手帳を、これは七千頁にも及ぶ大作だったのですが、他のゴミと一緒に自宅の裏の田んぼで焼いてしまうなどという愚行もしでかす始末でした。

ところが30歳の頃、糖尿病を発症。

2-3.一度は捨てた和医道和医術を認めたわけ

病気は徐々に進行していき、35歳の頃は大変な事態となってきました。

それでもまだ和医道和医術の教えを思い出すこともなく、さりとて病院で薬物投与を受けることもなく、病院以外のどこかに根治方法があるのではないかと、西洋式医学はもちろん、アーユルヴェーダ医学や様々な東洋医学に関する書物を乱読していました。

しかしその最中、失明の危機にまで陥ったものですから、とうとう西洋式医学の病院を頼ることにしたのです。

病院としては既に手遅れだったのでしょう。結局は病院の治療では私の体は治りませんでした。数回にわたる手術の効果もなく度重なる眼底出血により両眼とも失明し、医者にサジを投げられる始末。失明している上に全身がかなり衰弱していましたから、病院のベッドにただ体を横たえているありさまでした。運がいいのか悪いのか、当時考えていた最悪の境遇と境涯を体験する事態となったのです。

それでも何か出来ることはないかと思いを巡らせたときに、やっと昔聞きかじった呼吸法を思い出しました。

呼吸法なら寝ていても出来る!

ひたすら呼吸法を繰り返すうちに、徐々に自分の中から祖父の教えが蘇ってきました。

よし!他に手はないんだから、和医道を試してみよう!

こう思ったとたん、心が少し軽くなったのを覚えています。

足元に気づく

隣の芝生はきれいに見えるものだが
理屈抜きに対岸の芝生は青青(あおあお)と見えた

慣れてみると実はそうでもなかった
我が家の芝生と変わらない
色と形が違うだけだった
やはり我が家と同じ不揃いの芝生だった

久しぶりに今は遠き我が家の方を眺めてみたら、なんと緑緑(あおあお)して美しく見えるではないか

シマッタ、そうだったのか…
何と言うことだ…
そういう事だったのか…

本心から足元に気づいたとき
感涙と感動、涙・涙・涙の日々

はじめの一歩が始まった

ここまできて、20年ぶりにようやく、やっと真摯に和医道と向き合うようになりました

2-4,実践の中で「元気」を知った

「元気」は「もとの気」。

これは祖父の教えの中で、当初から疑問に思っていたことの一つです。「心の元は気」「肉体の元も気」などと言われても、理論のみで実践の伴わない当時は、何もつかみようもありませんでした。

自分が病気で八方ふさがりになって、初めて理解することができたのでした。学んだことを実践し、確認していくうちに、「元の気」が満ち満ち溢れるのを感じました。それはもう実況中継してさしあげたいくらいスゴイ体験でした。

それに伴って、祖父の言うように病気は自然と解消されていったのです。

和医道和医術の教えは絵空事ではありませんでした。

2-5,「元気」に戻った心身で研鑽を続けた

命を賭けて、やっと認めることができた和医道和医術。

取り戻した「元の気」で他者を治しはじめたのは、自然の成り行きだったと思います。それからの研鑽の結果が、今の和医術の手へと進化してきたわけです。

現代西洋式医学の素晴らしいところと足らざるところを知り、足らざるところは和医道和医術にあることを知りましたし、西洋式医学で「気」の実在を証左できることも確認できました。

十数年間の実践の中で、和医道和医術の理論を追試し、確認し、最近になってやっと先代の言わんとするところが表現できるようになってきたと思っています。

自ら言うのもちょっと気恥ずかしいことですが、先代の教えを守りつつも、現代の方々にも時代に応じた形で納得して頂ける客観性あるものへと大きく進化させることが出来たと思っています。

もちろん更に手を加えなければならないのではありますが、和医術に関しては物理医科学的にも科学器機で客観的な検証が可能なものとなっていますし、それは未だ見えざる「気」の実在を求めに応じていつでも科学機器による実験で証左できることにも繋がります。

このような研鑽の日々を経て、自ら焼き捨ててしまった初代の理念を再現したいと思うようになりました。併せて今までの私の経験をまとめれば、その効果はもちろんのこと、理論・技術論においても先進文明国の人々にとって役に立つものであろうと考えています。

2-6,そして日本を考えた

さて、私は「病気」から「元気」に戻る経験を通して、西洋式医学的病気観は事態の半分しか捉えていないものだったことに気付きました。前項でも「現代西洋式医学の素晴らしいところと足らざるところを知り」と述べましたが、西洋式医学の病院が全てを託せる最も優れた医療機関であると考えていた常識は、想い込みに過ぎないことがよくわかったのです。

人は健康状態から病気となり、そしてまた健康を取り戻すことを繰り返して生きています。

少々の腹痛や風邪、切り傷などは放っておいても自然と治ることは知っていますが、なにやら難しそうな病名が付けられたりすると、これはもう病院で治療してもらわなければ健康を取り戻すことは難しいと思ってしまいがちです。

今の常識では当然のことかも知れませんが、これは時代がもたらす、その時代特有の錯誤と言わねばなりません。いつの時代にも常識には錯誤が付きもののようです。

西洋式医学の進歩にもかかわらず病気が増えていくのは、我々現代日本人の価値観が、医療を西洋式医学一辺倒に偏らせてしまった結果でありましょう。

しかしながら太極の視点から考えますと、それも悪いことばかりではないようです。実は人類の進歩の為の錯誤でもあるようなのです。つまり、これは時代がもたらす人類進歩のために必要な迷盲であると思われます。

であるとすれば、それをどのように乗りこなし、どのように乗り越えて行ったら良いのか。そこには乗り越える楽しみというものがあるはずです。ネガティブに想い煩ってばかりいても、よりよき変化は訪れません。ですから「苦」と思い込んでいる想い込みを一旦捨てて、「楽」に転換する心の姿勢が求められているように感じます。

私たちはそこに気付くべきなのでしょう。

歴史を振り返れば、人類はいつの時代においても前向きに進歩して来たことがわかります。今後は科学も手伝って、もっと高くジャンプできる時代となります。しかしそこで人間の「元」を忘れてしまってはいけません。足は大地にシッカリとつけ、常に足元から点検することが必要です。

結論を簡単に申し上げてしまいましょう。

我々日本人が受け継いできた「元」、つまり足元に実際にある根は太く揺るぎなく磐石なものです。かつて国家政策として受け入れた宗教においてもそうであったように、今後分析が進む医科学においても、日本にはその全てを寛容し、安定せしめ、磨きをかけ、新しいモノへと創作(つくり)変えていく力が働いています。そしてその力は時代時代に大きな波となって顕われ来たるもののようです。

日本は世界でも類をみないほど永く安定した一貫性のある歴史をもつ国です。我々日本人は皆、その素晴らしい記憶が刻まれた魂を内包しつつ、今この日の本の国の先頭に立っているのです。

現在あるような宗教も科学もない時代、いわゆる宗教以前の時代から今を見下ろせば、宗教と科学がよく理解できます。今後の日本の医療はどうあるべきか、何を科学するべきなのかなどなど、鳥瞰できると思います。

宗教と科学、非物理と物理、心と肉体への理解に磨きをかけるためには、常識と思われているモノに更なる磨きをかける必要があるようです。

3,和医道和医術の「病理」

3-1,「病理」とは永遠に変わらぬもの

初代から学んだ「病理」は、今でもそのまま和医道和医術の「病理」です。

私の施術実績から考えても、今の時代においても的確なことです。いつの時代も太陽が東から昇ることが変わらないように、どれだけ生命医科学分野の知識が増えても、この「病理」は変わることはないと思います。それどころか時代が先に進めば、生命医科学がこの「病理」の正しさ、および「気」の在り方を明確に裏付けてくれることと信じています。

しかし、初代が語った「病理」はあまりにも精神的で且つシンプルなものでありますから、西洋式医学を基準として生きている私たちにとっては解釈が困難であることは否めないかも知れません。

と、継承者である私が言いますのには理由があります。

「佳秀が辿った和医道和医術の紆余曲折」にも書きました通り、その昔、和医道和医術に一番の疑問を感じていたのは、この私自身であったからです。

ですから、初代が語った「病理」を、その意味するところを間違わぬように気を付けながら、分かり易く要約し直しました。

その中の一つをご紹介しましょう。

3-2,【現代版】和医道和医術の「病理」

初代:松下 初(まつしたはじめ)からの言伝(ことづて)より

病気の原因
その初発は血液の汚れじゃ血液には様々な汚れがある
その様々に汚れた血液が、様々な病気の形を造り
様々な症状となって現われているのであるから
病気を治さんとする意欲があるならば
まずは浄血を促すのが本筋じゃ血液を浄化するにはどうすればよいのか
まずは口から入れる物を正すことじゃ
そして入れた物を適度に出すことを実践するとよかろう

なかなか治らぬ場合には
心の見直しが必要になってくることも多々あるぞ
血液を汚す誘因は人間の心にもあるのじゃからな
この場合は、口から吐くモノ
つまり言葉を正しく整えるということじゃ

肉身に現われたる病気を治さんが為の
手段・方法なるものはいくつもあるがな
一番の良薬は、「元気」を取り戻すことじゃ

「元気」とは人間の生命を支えているもの
心の元の「気」と肉身の元の「気」を取り戻せるならば
病気は自然と自壊・自消・自滅してしまうものなのじゃよ

物理(肉体)に法則があるがごとく
非物理(心)にも法則があるのじゃが
人間の本性は心が主人で、肉身は完全な従者じゃ
肉身は嘘も言わず、チョロマカシも一切無い
まるで神様の如しじゃな

この理(ことわり)を言葉にすると『心主身従』ということになる

主と従、主従の関係ではあるが
不平等の関係を言っているのではないぞ
お互いの関係が平等であるが故の主従の関係じゃ
お互いの法則の間には秩序(順番)が有り
役割が有るということじゃな

自然界の一日は朝・昼・夕・夜を間違いなく繰り返している
朝の次には必ず昼が来て、昼の次には夕となり夜となる
昼の次に朝が来ないのは
自然の法則と秩序(順番)があるからじゃ

朝の日の出に対して、夕の陽は沈み
昼の陽光眩しき明るさに対して夜の暗き静まりあるが如く
内と外、表と裏、入と出、求心力と拡散力など
性質の異なった相対関係にあるものが円滑に巡り行く為には主従の順番が必要なのじゃ

人間の心と肉身の関係にも
宇宙の法則と秩序同様、正しい主従の順番があるということなのじゃよ

さて、ここが大切なところじゃぞ
この物と心の根源は二つで一つじゃが
二つの住む世界は別々なのじゃ

この別々の世界に住み異なる性質を持つ二つの根源は
数には出来ぬが、一つの無限大と解釈するとよかろう

唯一なる無限大から生じた物と心の異質の二つが一つに結ばれて顕われているのが我々人間じゃ

さあ、面白くなって来たじゃろ

「人間の心と体は一体」であると見るのは物理的に優れた西洋式医科学の見識じゃが、これは半分は的を得ているが、もう半分は誤りじゃ

正しくは「人間の心と体は一如」である、つまり「心身一如」と解するべきなのじゃよ

「一如」とは「一体の如し」であって、「一体」ではないということじゃ

「一体」と「一如」の相違がわかったかな

わかるまいな。まあ今はそれでよしとするか…

心と体が正しく一如となった時、
人間は「気」が満ち満ちて『心主身従』となり
病気は自消自壊するということじゃ

よろしいか…。
『心主身従』の姿が「元気」の運行の姿形であり
心と肉身の関係が調和している時の姿形じゃ
反対に『身主心従』の姿になると
元の「気」が滞って病気となるわけじゃが
そは、心と肉身の関係(順番)が逆さま(転倒)であり
心身が不調和になった時の姿形なのじゃ

自然界では、朝が来ても夜が明けないことがあろうか?

ところが人間界にはあるのじゃなあ
それを病み、闇ともいう

病気を治さんと欲するならば、迷うことなかれ
心を正し、身を正し、手を組み合わせ、
息を整え、一点に集中するがよい
それが早道じゃ

さすれば心は「空」となり、身は静止となる

その時、元の「気」が自然道交し、
通うに従いいよいよ満ち満ちて、
満ちあふれるようになる時、
肉身の病は自然と勝手に自消自滅するものじゃ

病者の元の「気」を取り戻すのが和医道和医術じゃ
たったそれだけの話しじゃよ…

その他、詳しくは和医道編にて解説することと致します。

さて、日本には太古より連綿と受け継がれてきた自然の法則があります。

それは時代が変わってもかわる事のない不変則です。

実は今でも、あまり気付かれることもなく、日本人の心の底流に脈々と流れています。そして意識を振り向けさえすれば、日本人なら誰でも了解できることです。

先代の説いた病理もその不変則から導き出された「病理」であろうと考えます。

この「病理」の意味するところは、頭で考えただけでは解りそうでいて解らないでしょう。頭がいくらいい人であっても難しいと思いますが、知識として知っていれば、「道」の実践に従って後で解ってきますし、和医道など何も知らなくとも、時は要しますが実践する人は自分で気付いていかれるようです。言葉ではうまく説明できなくても、他者の言葉を聞くと、「そうだ、その通りだ」「ん?それはどうかな」と感じることができるようになります。

このような過程を経て病気が解消すれば、病気が何故に存在するのか理解出来るようになります。そうなれば病気に対しそんなに恐れないようになりますし、自分で自分の病気はコントロールできるようにもなれることでしょうし、治せることでしょう。

ただし、この「病理」が言うところの病気とは、人間が自ら造った病気のことです。

3-3,「病理」が示す病気とはいわゆる慢性病である

自ら造った病気とはなんぞや?

そのあたりを理解して頂くために、和医術が考える病気の領域を見ていただきましょう。

病域(1)
人間の外側からくる病域
緊急性で短期に治る病=単純系
人体の外側からくる病気であり、原因が全てはっきり確認でき、物理的に「見ることの出来る」病気です。例えば、事件・事故・障害、ばい菌やウイルスによる伝染病などです。
和医術ではこのような病気を単純系とし、全病気中の占有率は10〜15%と考えています。
病域(2)
人間の内側で造られる病域
症状が長期化する傾向にある病=複雑系
人体内部で造られた病気であり、西洋式医学的には体内にいくつもの原因が見受けられますが、それら原因物質とおぼしきものには機能性があり、どれが本当の原因なのかはっきり掴めていません。その意味では、原因がはっきり「見えない」。
和医術ではこのような病気を複雑系とし、全病気中の占有率は80〜85%と考えています。
病域(3)
遠き祖先由来の遺伝的形質の病域
全病気中の占有率は5%程度と考えています。

現代においては全てをひとまとめにして「病気」と呼んでいますが、それらは上記のように分類できるわけで、和医道医術の「病理」は、病域(2)に関しての不変則ということになります。先代達は、病域(1)に関しては、これはある意味病気ではなく、人体に振りかかる災難と考え、病域(2)こそが「病気」であると考えていたのでしょう。

「病気」とは
「気が病む」のである「気が病む」のは
元の気が滞るから「気が病む」のである「元の気」とは
生命あるものを生かし育む気のことであり
生命の力の源泉のことであり
これは調和の力の源泉といってもよいこの「元の気」豊かなるとき
人は「元気」なものである

従って、病域(2)が和医術が得意とするところです。

これは体内で造られていく病気、つまり自ら溜め込んだ「ゴミ」によって発症する病気ですから、常在菌による体内感染症なども含めて、和医術では「慢性病」として捉え、

「慢性病は個々人が自分で造っているものであり、造った病気は自分で治せるのだ」

と断言し、その方法を実践しているわけです。

一方、病域(1)は緊急性を要するものですから西洋式医学の得意とするところでありますし、病域(2)でも手遅れで緊急性を要する状態の場合は、まずは西洋式医学に勝るものはないと考えます。

しかしそれで治ったわけではありませんので、仕上げは和医術で対処するとよろしいでしょう。一番望ましい形は西洋式医学の処方と和医術の施術を同時に受けること。つまり医師と和医術師のコラボレーションが理想的なのです。

これらについても、自然の法則と秩序の顕われとして解釈できますので、また別の機会に述べたいと思います。

4,和医術の「技」とその使い方

和医道和医術における「病理」と、和医術が得意とする領域はいわゆる慢性病域であることをご紹介したところで、次はこの和医術が皆様にどのように役に立つのか、どのように使えばいいのか、について述べておこうと思います。

和医術における施術上の技術には様々なものがあります。

患者さんが抱える悪症状をもっと短時間で解消する方法はないものだろうか?
施術中に痛みを出さないようにするにはどうすればいいだろうか?
この「ゴミ」はどこをどう流して移動させるのがいいだろうか?

西洋式医学の知識も学びつつ、十数年にわたる試行錯誤の結果、今はどなたにも安心して施術を受けていただける技術が出来上がりました。

その過程で、日本式和医術と西洋式医学は互いが「表裏」に位置するものであり、互いに補い合う関係にあるものであったと気付きました。それぞれの役目・役割を考えると、この異なる性質の医術は一如となるべく存在しているのだと思わずにはおれません。

このことを広く一般国民の皆様方にもご理解いただき、双方を賢く使い分けて、安心安楽な人生を歩んでいただきたいと願っています。

4-1,和医術の三大療法は、西洋式医学の不得意領域を補うものである

現在病院(西洋式医学)で行われている物理的治療手段には、三大療法と呼ばれている手術療法・放射線療法・薬物療法の三つの形式があります。

この三大療法は、歴代天皇に伝わる御璽(みしるし)になぞらえて、西洋式医学の三種の神器とも言われ権威付けられていますが、実は和医術でも同じことが行われているのです。

和医術でも、病院の治療と同様の効果をもたらす目的で、手術療法・放射線療法・薬波療法を使い分けています。使うのは「薬波エネルギー」一極ではありますが、「薬波エネルギー」はその時々に必要な形で人体に働きかけることが可能なのです。

この三種の神器、西洋式医学を「表」の技とすれば、和医術は「裏」の技であると言えるでしょう。

この「表裏」の関係は相対関係となっているように見えますが、相対相関しているからといって互いに対立あるいは敵対関係にあるわけではなく、まったく逆で、実は相補の関係にあります。

別紙『和医術ゴミ理論』で解説していますが、西洋式医学と和医術は人間の病気に対してどちらも万能ではなく、得意領域と不得意領域を持っています。その関係は、西洋式医学が得意とするところは和医術は不得意、和医術が得意とするところは西洋式医学は不得意、となっているのです。

「表」の西洋式医学は知識の技術
「裏」の和医術は知恵の技術

両者を結び合わせ、双方の技術を組み合わせれば、それぞれの利点がさらに引き出され、1+1が2ではなく5にも10にも、それ以上にもなり、疾病に対して良好なる結果が得られることになると考えます。

また、この和医術の三種の神器は、元祖はじめジイの時代(明治・大正・昭和)にはまだ表現できてはいませんでした。三代目の私の時代(平成)になって確立された形式です。このような時代に応じた和医術の進化過程にも大きな示唆を感じています。

ここに一枚の紙があったとしましょう。表がA4なら裏もA4ですね。表がA3へと大きく成長すれば、裏もやはりA3へと成長して当然です。この一枚の紙の如く、西洋式医学と和医術は表裏一如の関係で互いに補い合いながら進化発展していくものと信じます。

以下に記載しますことは純然たる事実です。

各界各分野の皆様方、それぞれの立場・立ち位置で、これからの日本の医療のあり方について是非、考えていただきたいのであります。

では、西洋式医学同様に使い分けている和医術の三種の神器をご紹介し、その使い方について簡単に解説していきましょう。

4-2,和医術の使い方〜手術療法〜

和医術から見ると「手術」には二通りあると考えています。

西洋式の手術=手器術
日本式の手術=手気術

西洋式は器具を使って行うので「手器術」
日本式和医術は気を使って施すので「手気術」
どちらも「しゅきじゅつ」と読みます。

和医術の場合の手術療法、つまり「手気術療法」は主に体の外側の異常時に使われ、体の外壁や支えとなっている部位である筋肉・骨格・靭帯・腱・腱鞘などの機能性疼痛や不具合などの整形外科系疾病に適しています。

病院での手術(手器術)でも効果を上げているケースがたくさんありますが、器具を使って行う以上ある程度の物理的危険性が伴いますから、後遺症が残ったり、リスクが高すぎて手術は困難と判断されるケースも多いようです。

そのような場面でこそ、和医術の手気術が威力を発揮します。

使っているのは「気」だけですから、無傷無痛で副作用も危険性も一切出ません。それどころか手術中の患者さんは、気持ちよい安心感に包まれて過ごしているのです。

手気術を施した結果、その効果は異常となっていた局部的原因部位の解消・手治しがなされただけでなく、関連部位にまで広く、深く及んでいます。

これは非物療を使っての手術、「手気術」だからこそ可能な表現です。

和医術の手術療法が効果的である病名を『病気の治し方』にもいくつか取り上げていますので参考になさってください。

4-3,和医術の使い方〜放射線療法〜

和医術においての放射線療法は、血管内腔の目詰まりや頭蓋骨内の異常などの場合に使います。

例えば、脳梗塞の症状が出はじめ脳内出血寸前の状況である時や眼底網膜症で出血寸前の時、耳の外耳・中耳・内耳の異常などに対して、西洋式医学の放射線療法同様、三次元で的を特定し、ピンポイントで「薬波エネルギー」を局部に照射します。

和医術の放射線療法の効果は即効的です。

即座に局部の機能回復を促すことができ、しかも人体組織を破壊することはありませんから、危険性・副作用も一切ありません。この技術はその他にもまだまだ応用できるものと考えています。

現在の西洋式医学の放射線療法は、異常部位を焼き殺すような療法です。それなりの有効性は認めますが、照射部位は自然再生することは二度となく、被害の方が多いように思います。しかしこれは裏を返せば、まだまだ成長の見込みのある分野であるということです。さらなる研究開発に期待したいと思います。

4-4,和医術の使い方〜薬波療法(薬物療法)〜

和医術においての薬物療法は、薬物ではなく「薬波エネルギー」を使うわけですから、薬波療法です。

これは肺炎・腎炎・心臓肥大など、内臓器の器質異常の場合に用います。

西洋式医学ではなかなか解消しづらい内臓器そのものの異常を「薬波エネルギー」で中和分解して、元の元気に戻していきます。

人体は内臓などが入っている内側と筋肉層などの外側とは連携しているわけですから、実際には部位・局部だけでは済まされない場合がほとんどです。

ですから一回の施術中にあっても、これらの三種の神器を必要に応じて、組み合わせて使うことが多いのです。

5,和医術の気は「薬波」

既に他のページをお読みくださった方はお解りのことと思いますが、和医術は「気エネルギー」の働きによって病気の物理的根本原因となっている体内の「ゴミ」を消す医術です。

※体内の「ゴミ」については和医術ゴミ理論を参照してください。

その施術に使う「気エネルギー」を、和医術では「薬波エネルギー」と呼んでいます。

そもそも「気エネルギー」とは何なのか?

この世の全ての物質を細かく分解していくと、その先にあるのは気エネルギーの世界です。物質の元は「気」です。「気」は、物の中にも水の中にも土の中にも真空にも、ましてや人体の中にも満ちています。目に見える範囲も見えない範囲も全ての全てに「気」が充満しています。

現代物理学で見える範囲の背後、または素粒子の更に河上には「気」の世界が法則に従って、秩序正しく広がっています…

…とこのような話しから始めたいところなのですが、一般的な「気エネルギー」については皆さん既によくご存知のことと思いますので、そこは省略して、「薬波エネルギー」について簡単に解説しておきましょう。

5-1,「薬波」は中道域の無限エネルギー

「気エネルギー」は、−と+との2極、つまり東洋の言葉でいうところの陰と陽の2種類に分けることができますが、その他にもう一つ、陰でもなく陽でもない中道域の無限エネルギーがあります。

この中道域の無限エネルギーが「薬波エネルギー」です

「薬波エネルギー」は人間の意思では出すことはできません。法則と秩序に従って必要な時に必要な分、出現するもので、和医道の研鑽によって得られます。

古来東洋では、中国に限らずインドにおいても日本においても、この世の陰陽相対の全ての現象の元は一つ(いつ)である事を知り、伝えて来ました。この一つ(いつ)に心を同調し、心と体を統一する方便が西洋式学問に対する東洋の医術の優越性であり、和医道の説くところでもあります。

このあたりのことについては、「和医道和医術における陰陽相対性原理」として別途述べたいと思っています。

5-2,「気」を「薬波」に変える方法

さて、「気エネルギー」も「薬波エネルギー」もどちらも元は同じ「気」ですが、私たちが元気な時の「気」であっても、「薬波」と比較してみますと、その質量にはかなりの格差と落差があります。まして病時の体や疾患となっている部位・局所となると、尚更大きな差があることはいうまでもないことです。

そんな目に見えない「気」の質と量について考えるのに、誰もが知っているちょうどよい例がありましたのでご紹介しておきましょう。

それは太陽光です。

これなら見たこと、感じたことがない人はいませんね。

日常における太陽光が、私たちの日常の「気」、つまり日常の「元気」です。曇りの日や雨の日もあるように、「元気」の状態も刻々と変化しています。私たちが普段「元気がない」と感じているときは、太陽光が雲や木々で遮られ影が射している状態だと言えます。

そこで小学校の頃に理科の授業でやった実験を思い出してください。

太陽光と凸レンズを用いて発火させる、あの実験です。日光は集めたり反射させたりすることが出来るのですね。

例えば、地面が焼け付くような灼熱の太陽光が降り注いでいる砂漠地帯であっても、そこにただの紙を放置しただけでは、何日経っても自然に発火することはありません。

しかし、そこに凸レンズがあれば簡単に発火させることができます。

太陽と凸レンズ

太陽光線を凸レンズで集め、紙に焦点を絞り込み合わせると、エネルギーが増幅され着火します。

これは場所も季節も関係ありません。太陽光と凸レンズさえあれば、地球上のどこでも、寒い冬でも同じ結果が出せるのです。

さらに、この着火時間までの速度を速めたいのであれば、紙上の焦点となる部分を黒く塗りつぶしておくといいでしょう。

つまり、

太陽光は「気」、凸レンズによって集められ焦点を絞られた光が「薬波」というわけです。

ということは日常の「気」を集めて焦点をしぼれば、「薬波」になるはずです。

しかし凸レンズにあたる設備が人体にはあるのでしょうか?

それがあるのです。

人間の体の設備というのは私たちが普段考えているよりも何十倍も何百倍も立派にできていまして、実は私たちも凸レンズを常に持っているのです。誰でも、いつでもどこでも凸レンズを取り出せるように造られていたのですから、これはビックリです。

種を明かせば簡単なことです。

心が凸レンズです

気エネルギーを手に集めるためには、レンズに相当する心の想念をある一定のチャンネルに合わせる必要があります。

その一点に焦点を合わせ集中することでエネルギーが増幅され、手に知覚認知できるまでの気エネルギーに変換されます。

病気治しの場合、この増幅速度と気エネルギーの質と量をもっと上げるためには、イメージで焦点となる患部にマーク(日の丸・月の丸・純白丸印)を付け、そこに集中すると「薬波エネルギー」に転換されていきます。

たったこれだけの話しなのです。

想念とイメージを使うことで、「気」は増幅され、「薬波エネルギー」となるのです。

この変化は病気が重篤である人ほどより強く感知されます。

このような「薬波エネルギー」は、和医術を施す者の特殊能力などではなく、老若男女、人種、国家、貧富の別なく、本来人間が平等に持っている能力・本能です。太陽光には昼夜がありますが人間の心と体の設備には昼夜の別はなく、いつでもどこでも誰にでも「薬波エネルギー」を取り出し、使うことができます。

皆さんも「薬波エネルギー」を使ってみたくなりませんか?

「病気」が縁で人生をつまらないものとするのか、「病気」を縁として才能を伸ばし、人生を有意義なものとするのか、「病み(やみ)」を「闇(やみ)」として周りが見えずなんの才能にも気付けない人生とするか、「闇」に自分で火を灯(とも)し、今まで見えなかったモノを切り開き、生き生きとした人生を送る自分に変わるのか、どちらを選ぶかはあなた次第です。

そこのところに早く気付いて、自分のため、ご家族や友人・知人のために使いまくっていただきたいと思っています。

ただし、「薬波」が出せる能力は人間の才能の中のたった一つに過ぎません。ご存知の通り、手から放射して医療に用いるだけが「気」の特性ではないのです。全てに「気」が介在しているのですから、ご自分が興味を持てること、やりたいことにも一流の「気」を善用してほしい。それ故の病気治しです。

これからの科学者、数学者の方々にも多いに活用していただきたいところです。一流の「気」の能力を引き出す為の手法は、まずは呼吸法から入っていかれるとよろしいでしょう。

5-3,「気」は光、「薬波」はクリスタル白光

私はかつて目が見えなくなった時期が一年間ほどありました
その頃、自身の見えない眼に手を当てた時に何度も何度もクリスタル白光が見えたのです。

そのような経験から言うのですが、「気」は光であり、気功その他の手によるエネルギー術の元はみな光です。そしてこれは磁気、電磁波、軽微な電気へと変換されるのだと考えています。

参考までにその段階をご紹介しておきましょう。

これは私自身が辿って来た道でもあります。

なお、施術者によって痛みなどの解消速度の差が現実に生じるのも、その施術者がどの段階にいるのかによるものです。

私の主観解説で解りにくい話かも知れませんが、これはこれで私にとっては事実ですし事実現象と符合していますから、客観性ある事実として認識して頂きたいところです。

とは言っても、誰しも体験のない現象を理解することは困難でしょうから、これも「そんな事もあるのかな…?」といった気分で読んでいただければよろしいでしょう。

【参考】薬波に至る3つの段階

施術中、置手(単に患部に手を当てているだけの集中状態)の場合において、気エネルギーから薬波エネルギーに変化していく過程をまとめてみると、以下の3段階に分けられると考えます。

【第1段階】
磁気[患部と手との共鳴・感応・共振]

薬波に至る第一段階

光の乱舞とでも言うか、だいたい赤黄緑青など非常にクリスタルな色で、破線・螺旋状の流星群のような振る舞いや、雨のような直線的な光の振る舞いがあります。

そしてこれらが同時に混在しているわけで、まるで夏に打ち上げる連発花火を見ているような光景です。それは肉眼で見る花火よりももっともっとクリスタルで鮮明でうっとりする程きれいな光彩です。

【第2段階】
電磁波[患部と手との同調・融合]

薬波に至る第二段

乱舞で調整が整うと、光は一瞬しりぞいて消えます。それから、ドーンという振動と共に、菊花のような形で色とりどりの光が中心から円を描いて広がります。

花火の三尺玉のような大輪の菊花をイメージしていただけると解りやすいでしょう。これも感動的色彩です。そんな一発で第2段階は終わりです。

このドーンという振動は施術者が感受するものです。患者さんにとっては自律神経が気と同調した瞬間であり、夢うつつの非常に気分のいい状態です。

【第3段階】
電気(微弱)[患部と手との中和・破壊・スパーク]

薬波に至る第三段

菊花が飛び散った後、また光は去って静寂が訪れます。そして最後に目がくらまんばかりのクリスタル白光が、大きな振動と共に炸裂します。

その瞬間は、目が悪いにもかかわらず目を覆いそうになり、最後0.0…0秒は眩し過ぎて何も見えなくなります。

以上のような光の振る舞いやエネルギー出力量と質とを社会のインフラに例えて、電気を流す容量の大きさで分けてみるとよく解ります。

【第1段階】
家庭における屋内配線

【第2段階】
電柱の配電線

【第3段階】
高圧線である送電線

流れているのは同じ電気ですけれど、通せる量の違いが生じるのです。もちろん電圧にも違いが生じるわけです。

健康生活においては、第一段階の屋内配線の電気量・電圧で充分です。でも人間誰でも社会生活を送っていると内外にストレッサーが多いわけですから、時折は第二段階の「気」を自分で通してゴミを分解すれば、これに越したことはないのです。

施術家を目指す方々や医療従事者の方々には、第3段階の高圧線を手に入れて頂きたいと思います。

今、私には、条件設定さえすれば、他者施術の時にも確認しようと思えば白光だけはいつでも見ることが出来ます。また時には、施術を受けられた方々もクリスタルな色とりどりの光彩や形が見える、と感動しておられます。もちろんこのような方々は、「気」に関するマニアではなく、単に施術を受けに訪れたお客様方で、社会的には立派な信用のある方々ばかりであることを付け加えておきます。

5-4,「薬波」で、なぜ「ゴミ」が消えるのか?

では、なぜ「気(薬波)エネルギー」で「ゴミ」が消えるのか?
堅固な硬化物体にまで成熟したものだったとしても、確かに消えている。
なぜなのだろうか?

これは和医術をご提案するにあたっては、大変重要な点です。

結論を申し上げますと、

私自身、「薬波エネルギー」の特性についてはかなり深淵なるところまで確認していますが、なぜ硬化固形物が溶けてしまうのかについてはわかっていません。主観的な仮説は持っていますが、それはまだ申し上げる時ではないでしょう。

ですから今は「そのようになるのであるから、そのようになってしまうものだ」としか言いようがなく、「元々そんなものなのだろう…」としか言いようがありません。

悪症状が解消されたとき、和医術の目で見ますと、施術前にはあった「ゴミ」が消えています。

悪症状がなくなった=「ゴミ」が消えた、となっているわけです。

「薬波エネルギー」は全ての病気に適用できるわけではありませんが、物理的直接的原因が「ゴミ」である病気の場合であれば、患者さんを何人替えても同様の変化が生じ、同様の良い結果を導いています。それであって副作用や危険性が一切伴わない。この良変化は最早、今現在においても科学的客観事象に基づくものであると判断してもなんら不都合はなく、不可解でも不可思議な現象でもないと考えています。

つまり、この変化は西洋式医学の科学の目でもわかることだと思うのです。

映像化したり、生化学検査したり、その他にも比較の方法は色々あるでしょう。私のような名も無き者の主観的解説では頼りになりませんから、本来であればここは一旦、信頼ある科学の目に頼りたいところです。

しかし現実的には西洋式医学で検証するところまでにはこぎつけていませんから、今のところは、患者さんがお持ちになる病院での検査画像や生化学検査・心電図の結果などをその都度、患者さんと共に確認し合いながら施術を進めています。

私の本心は積極的な証左実験をやりたいのです。

「薬波エネルギー」という非物質が物体に与える影響力を科学的に説明できれば、これは大変有意義なことです。患者さん方が納得のいく施術を選択するための判断材料としても、治癒段階での客観的な安心のためにも、とても頼りになる情報となるでしょう。

「よし!本当にそんな変化が起こっているのかどうか、私が実験してやろう」という方がいらしたら、是非ご一報ください。

しかし現実問題としては、このような科学的解明は専門家の間の問題でありまして、患者さん方が望んでいることは病気が解消できること、それが実用的であることです。

最近の一部の科学者にあっては、様々な生薬を取り出して統計学での有効性の有無を語り、それが科学的研究だと考えておられる方もおいでのようです。それも大切な一案件には違いないにしても、労多くして効少なしに思える現状は大変残念なことです。

果たして、生薬が人体に及ぼす機能性に関して明確に解答が出せるのでしょうか。効果有りや無しや、どれほど有りや、の判定に終始しするだけでは、結局は単なる数学の効用を語るに過ぎません。もちろんそれも悪いことではありませんし、何かの役に立つこともあるのかも知れませんが、科学的エビデンスとはそんなものではない、と私は思っています。

医科学に対する時代の要請は、科学者が考えているよりもっと先に進んでいるのだと感じます。

現代においては一般国民といえども高度な教育を受け、情報が氾濫する社会の中でもまれ、知性が向上しています。それにもかかわらず、病人が増えていくのはなぜなのか?国民の要望は、病気にならないこと、病気が解消できること、その方法が実用的であること、です。

もっと単純なモノの中に、もっとスゴイ、時代を塗り替えるような研究材料がたくさんあるのです。心ある科学者の皆様にはそこのところに是非気付いていただきたいと切に願います。

さて、仮に「薬波エネルギー」が人体に及ぼす影響に関しての科学的な証左実験を行うことが出来たとしても、科学の目で確認できることは、

●有るモノが無くなった
●数値が変わった
●波形が変わった

という物質の「一連の変化」を捉えることに過ぎず、「薬波エネルギー」がどのようなメカニズムで働きかけているのかということまでは今の科学では、説明はまだ困難でしょう。

しかしそれで充分だと思います。現時代を乗り切るために重要なのは西洋式医科学によるこの「一連の変化」の証明です。それ以上の領域の科学的解明は、人間の永遠のテーマなのであろうと考えます。

なお、「薬波エネルギー」は、生命あるものには一切関与致しません。

たとえ単細胞の微生物であっても、直接的に殺生することはありませんが、間接的結果としてなら影響を及ぼします。それが免疫力の正常化です。免疫力の不足あるいは行き過ぎを正して、体内の免疫防御を適度に戻すことには役立ちます。これについても科学的解答が望まれるところです。

5-4-1,【参考】「薬波」による「ゴミ」可逆分化修復還元過程の考察

「薬波エネルギー」により体内の「ゴミ」がどう変化するのかを、硬石灰骨化を例にして観察してみましたので、参考までに掲載しておきます。ここでは石灰質の量と質についての科学的数量等の定義がしてありませんので感覚的に読み流して頂ければよろしいかと思います。

「薬波」による「ゴミ」の可逆分化修復還元過程

体内における「ゴミ」の可逆分化修復還元過程

体内「ゴミ」の物理的変化の過程は今はまだ科学的に証明されているわけではありませんが、石灰骨化量の多い場合には、毎回薬波破壊された石灰精分のうちの10%程度が体液に還元され、そのほとんどは尿として排出されることになるようです。その他目、鼻、皮膚、大便からも排出されます。

残りの90%は形体を変えて粘土質のような粒子の集合体に変化し、元よりも柔軟質となります。

施術回数に応じて、「ゴミ」は図のように何回も逆分化を繰り返しながら最終的には消えていくと考えています。

なお、局部的痛みや可動域制限の原因となっている小さな石灰骨化やその他の原因物質などは、水溶化されてそのまま消えていきます。

なぜそのようなことが解るのかといいますと、自分の手先で確認しているからです。動画的に映像的に確認しているのです。その映像は一枚一枚の断片映像ではなく、ビデオ映像のように連続しています。

その様子は日常的には皆さん方が大掃除されるようなもので、ホコリやゴミを片付け、こびり付いたヨゴレを雑巾でこすっているうちに、ひどいヨゴレがどんどん薄くなり消えていくのが分かるようなものです。私の体感としては、加圧熱式のジェット式噴射式洗浄機で洗車する時のような感覚です。目がけたヨゴレをシャーッシャーッと高圧温水で洗い流す時、汚れが剥がれ落ち分解されて落ちていくのがよく分かりますね。これとよく似ています。

ここに至るまでの技術については、今は私の主観解説となっていますけれども、いずれはある一定の枠組みを定めた中でのエネルギー定量化により科学的に解釈できるようになるでしょう。

5-4-2, 【参考】「薬波」は太陽、「ゴミ」は雪の如し

私たちの身の回りに普通にある様々な自然現象の中にも、「薬波エネルギー」が体内の「ゴミ」に与えている変化を思わせる光景がたくさんあります。

2013年の始め、東京でも雪が降り、8cmほど積もりました。その翌日の残雪に、体内での硬化固形物の状態とよく似た光景をみつけ「これなんだよなー!」と思い、写真にとりましたので見て頂きましょう。

ゴミは雪の如し(人とのコラボなり)自然に降り積もった雪を、人の都合で雪かきした後の写真です。

つまり、雪と人のコラボレーション作品ですね。人体内の「ゴミ」も、実は「ゴミ」と人とのコラボレーション作品で、人体の動きによって筋膜層に出来上がったものです。

大・中・小の硬度の低い玉(ぎょく)とゴミ粒子が深く混在して留まっている様子とよく似ています。ひょっとしたら「最悪の骨化もあるかもしれない…」といったところですが、病院での検査器機の画像ではまだ判断できない段階だと思います。

人それぞれ筋肉量や筋肉の形・骨の形は異なり、人それぞれゴミの溜まりやすい場所も異なります。親からの遺伝もうかがえますが、腰痛などはその骨格構造が原因ともなっています。姿勢等の癖や、スポーツなどで特定部位を酷使することもゴミの形や質に変化を与え、「玉(ぎょく)」や「玉道管(ぎょくどうかん)」へと成熟することにもなります。


ゴミは雪の如し(骨化)

アスファルト表面を骨膜だと考えてください。アスファルトにへばりついた氷を、スコップなどではぎ取ろうとしてもなかなかうまくいきません。そんな時は熱湯をかければきれいに取れるのですが、人体の場合は熱湯をかけたらヤケドしてヒドいことになりますね。こんな時は薬波エネルギーで消すのが一番ですし、私は他に方法を知りません。

レントゲン・CT・MRIで脊柱の画像を撮ると、矢印の硬石灰骨化と骨化形成過程の部分は確認できると思います。しかし上部の散乱ゴミは確認しにくいでしょう。


ゴミは雪の如し(玉道管の形成)
あぜ道のような玉道管(ぎょくどうかん)の風景です。


ゴミは雪の如し(散乱ゴミ)
背中や腰、臀部などに発生した疲労素・脂肪などの変質した物資が浅く散乱している様子によく似ています。症状としては軽度、あるいはまだ発症していない状況です。


ゴミは雪の如し(初期症状発症)

症状が出はじめていて、悪化傾向にある時期の「ゴミ」の状態とよく似ています。


私たちが肉眼で直接見ている世界も、科学者達が顕微鏡で見ているミクロの世界も、宇宙を望遠鏡で見ているマクロの世界も、それぞれ形質は違って見えていますが、そこには連続性があり、同じ法則と秩序が働いています。我々人間もその中に生かされているわけです。

その意味からしても、体内にも、体外にも類似した現象がたくさんあります。

大地にあった水液(血液)が水蒸気となって天空に舞い上がり、ある層に達して固形物の雪となって舞い降りる。そこからさらに雪のドラマが始まります。氷結して固い氷となり路面にへばりつくモノ。玉になったモノ。帯状に連なったモノ。同じ雪(ゴミ)なのに、形質はまったく異なってしまいました。

しかし、いずれどれもまた同じ元の大地の水液に戻っていきます。

それを可能にしているのは、太陽の光と熱に他なりません。木陰となった場所ではなかなか水液に戻れませんが、陽光の射すところでは早々に還元されていきます。

「薬波エネルギー」は太陽の光熱と同じ働きなのです。

5-4-3,「薬波」は料理用火力の如し

「薬波エネルギー」だけでなぜ、多種多様な「ゴミ」、無限ともいえる程の組み合わせから出来ているゴミ物質(体内毒素)が溶解し、血液に逆戻り還元できるのか?

今度はスープ作りに置き換えて考えてみましょう。

まずズンドー鍋を用意して、血液の元の材料となる病気を放り込んでいきます。タマネギ病、大根病、ニンジン病、ごぼう病、豚骨病。さらに牛肉病もほうれん草病も入れてしまいます。お水を入れて火にかけてグツグツ煮込んでいきましょう。時折水加減も確認し、撹拌しながらグツグツ煮込んでいきます。さて一番先に形が消えるのはどの病気でしょうか…?

いずれにしても煮込んでいくうちに全ての材料である病気の形は消えて、鍋の中は液体だけの美味しいスープに変わりました。時間差こそあれ全て形が消えたわけです。たった一つ、火力というエネルギーで目的が達せられました。

火力は「薬波エネルギー」で、鍋と注水や撹拌などの番人は病者の体に当ります。「薬波エネルギー」で病気の元を溶かせば、後は全て病者の体が自動的に処理してくれます。

このようにして萬病は消えていくのです。

6,和医術の特長

ここでは、他の療法にはない和医術の特長を三つ挙げ、それぞれについて解説していきましょう。これらは和医術が和医術たる基本でもありますし、肝腎なことは、和医術における施術上の様々な「技」は、和医術の「気」が「薬波」であるからこそ可能となっているものだということです。

和医術の特長
(1) 慢性病域の病気であれば、病名が何であれ、その病気を治(おさ)める方法は「薬波」一極である
(2) 体内の「ゴミ」の物理変化が客観的に確認できる科学的な気エネルギー術である
(3) 遠隔地療法でも体内の「ゴミ」の移動・溶解が可能である

6-1,病気を治(おさ)める方法は一つ、「薬波」一極

和医術の特長の第一番目は、
病気を治(おさ)めるための方法は「薬波エネルギー」一極であること。

自分が自ら造った病気、いわゆる慢性病であれば病名が何であろうと病所がどこであろうと、病気を引き起こした物理的原因は一つ、「ゴミ」でありますから、病気への対処方法、つまり病気を治(おさ)める方法も一つ、「ゴミ」を消すことであるということになります。

西洋式医学的には、一つの病名に関していくつもの物理的原因と考えられる物質が発見され、その数が増えれば増える程に複雑になり、本当の原因が見えづらくなる。その結果、確定的な治療法も見えてこない。もしも一人の患者が、本当の原因が「見えない」病気を複数かかえていたとしたら、西洋式医学的にはいったいどれだけの原因を列記し、どれだけの対処方法を用いるのでしょうか。

それは、患者さん方がまるでスーパーに買い物に行って来たかのように沢山の薬が入ったビニール袋をぶら下げて病院から帰って来るのを見ればよく分かります。

一見するとなんと無駄なことかとも思えるのですが、このような西洋式医学の学識の追求は、功罪有りで、長い目で見ると功多く、重要なことであります。元来、西洋式医学は地道な努力の積み重ねが有るが故に客観事象として説明できるという思考方法もつものだからです。つまり学識分析を重んじる思考です。

一方、和医術は慢性病の原因はみな同じであるという視点に立ちますから、病気を解消するために為すことは一つであるわけです。

『2-2,【現代版】和医道和医術の「病理」』に述べられている通り、なんらかの病気を患った時、その体は病体であるように見えてはいるけれど、それは体内に溜まった「ゴミ」が元の体を覆い隠している姿であるだけなのです。「ゴミ」のために体の持つ本来の機能が乱調となっているだけで、その奥には元の健康体が眠っているのです。

ですから、体を汚している「ゴミ」を取り除けば、元々あった健康体が自然と目覚めてきます。

なんとシンプルなことでしょう。
これは智恵の働く思考方法です。

和医術と西洋式医学の違いは、非物理的手段(和医術)をとる方法と、物理的手段(西洋式医学)をとる方法との相違であり、これは格差でもあります。

「薬波エネルギー」とは人の「心」を通して出現した「無限の気エネルギー」です。体は物理界のもの、心は非物理界のもの。体(物)と心を比較してみればその自由度はまったく異なります。体は今があるのみで、過去へも未来へも行けません。でも心は過去へ戻れますし、未来を想い描き、その中で遊ぶこともできます。心は自由自在です。

自由度が高い非物理界の方がエネルギー的にはより強く、より本源に近いと言えますし、近い程に高級なものであるとも解釈できます。それ故、病気の原因物質の組み合わせが無限種あっても、「薬波一極」で完璧に対応でき、しかも副作用も危険性も一切発生せず解消できるという事実結果が成り立つのだろうと考えられます。

なお、「薬波」はいくら使っても減ることはありません。無限のエネルギーが施術者を通過するだけですから、施術者の内気が奪われたり減少したりすることは一切ありません。

6-2.和医術は物理変化が確認できる科学的なエネルギー術である

和医術の特長の第二番目は、治癒過程における物理変化が客観的に確認できる科学的な気エネルギー術であること。

和医術の「薬波エネルギー」は、中国その他の国々で使われている「気」とその元は同じですが、入手方法と運用方法が異なっています。

また和医術と中国式気功は、病気観については一致しているのですが、「なぜ治るのか?」という具体的なことになると、そこにはなかなか説明しにくい違いが生じます。

その違いについての詳細はこの場では述べませんが、決定的に異なる点は、医療上の客観性が有るか無いか、にあるでしょう。

まず、経穴経絡理論のように主に中国式と言われている気エネルギー術を表現してみると以下のようになります。

中国式の気エネルギー術

人体内部環境や「気」が流れるルートなどの、通常の人間には見えないものである体内の不正に対して、見えない「気」を放射して病気を治そうと働きかける技術

中国式は従来型の不可視を不可視で治める技術です。

これに対し和医術はこう表現できます。

和医術

「薬波エネルギー」により人体内部環境が可視化され、見えない「薬波エネルギー」で治めた結果は現代医科学技術で可視化できるため、和医術師と西洋式医師の診ているところが一致する、新しい形の気エネルギー技術

和医術は体内異常部位の「ゴミ」の物理的変化を診ながら進めていく療法ですから、客観性があると言えます。

和医術がどのような客観性をもっているのかについては、別紙『和医術ゴミ理論』をご参照ください。

客観性があるということは、西洋式医科学で科学的検証ができるということです。

西洋式医科学で科学的検証ができるということは、和医術師と西洋式医師との見解が一致するということであり、つまりは和医術と西洋式医学の病院とは互いに手を結べるということにも繋がります。これは双方にとって、また患者さん達にとって大変役立つことでありましょう。

なお、実際の施術においては、従来型である「見えないものを見えないモノで対応する技術」と、新型である「見えないモノを見える形に置き換える技術」の双方を使い分けています。

『和医術の「技」とその使い方』でも解説していますが、この点が和医術の技の最も秀でた点であると言えます。

6-3,遠隔地療法でも体内のゴミの移動・溶解が可能である

和医術では、体に直接触れて施術する方法の他に、直接触れずに行う方法、いわゆる遠隔地療法を行うことも可能です。直接体に触れていなくとも、体内の「ゴミ」を知覚し、自在に移動させ分解することができます。

この遠隔地療法の中においても、「見えないものを見えないモノで対応する技術(従来型)」と「見えないモノを見える形に置き換える技術(新型)」との2つの技術があり、必要に応じて双方を使い分けています。

遠隔地療法が可能であるのも「薬波エネルギー」あるがゆえです。このあたりの詳しいことは、また別の機会に説明することと致します。

7,和医術と西洋式医学、東西一如への期待

さて最後に申し添えておきたいことがあります。

和医術が可視化された技術に変遷できたのは、西洋式医学の恩恵でありました。

和医術の智恵で様々な慢性病を治めることはできますが、「なぜ解消してしまうのか?」について知識的に分析するのは、頭脳明晰な西洋式医学者の役目であり立場です。それが自然の表裏一如の道筋であろうと考えます。

これが人間が物事に対応するときの物(陽)と心(陰)とのあり方の正しい関係であり、

人体の場合にあっては、体(陽)と心(陰)が心身一如となったときの姿形であり、

医療の場合においては、西洋式医学(陽)と東洋式医学(陰)とが東西一如となった場合の正しい姿形なのでありましょう。

和医術の場合でいいますと、西洋式医学ありての日本式和医道医術であり、日本式和医道医術ありての西洋式医学である。

つまり西洋式医学は(陽・表)、日本式和医道医術は(陰・裏)というように、それぞれが表裏の関係に位置する立場であり、お互いに異なった役目・役割をもっているのです。

男女の関係同様、この異なる性質のお互いが一如となったとき、日本の医療のステージが上がり、日本人の医療・物に対する考え方、価値観が劇的に変化することでしょう。そのような時代を迎えるのは、意外にも近いのかも知れません。

2014-09-18 | Posted in 和医術ってなに?